伝えることの難しさ

BBS左No.442に
「周囲の方、SNSでの拡散など利用して、読んで理解出来る方には、
可能な限り広げて頂きたいと思います。」と言うのがあり
宇宙全史を広めることを考えてみました。

精神世界でワクワクと言う言葉があります。
これの原文はexcitementで誤訳だと言う意見がありますが
EO氏(鈴木崩残)に言わせればexcitementも誤訳で
元の波動は「心地よく感じることをしなさい」または
「安心してできることをしなさい」だと指摘しています。
例えて言えば結婚相手は安心する人を選びなさいとアドバイスしたら
なぜか常にドキドキする人と結婚したといったところです。
そういう訳で日本では誤訳されたワクワク感にしたがって破滅した
多くのアンチを生み出すことになりました。

このように伝えることは難しく
特に精神世界のようにつかみどことがないものは
いっそう困難です。

私が宇宙全史を学ぶのもお祈りをするのも単に心地よいからです。
例えて言えば、シャワーを浴びて汗を流したり
お風呂に入ると気持ちいいといった感じです。
これが誤って伝わって服を着たままシャワーを浴びたり
お風呂に入る人がでてきて文句を言う人が出てくるかもしれませんが
とりあえず何かやってみようと思っています。

他人の問題と自分の問題

他人の問題と自分の問題を考えている際に昔のことを思い出したので書いておきます。

小学生のとき、新米の男性教師が担任になりました。
クラスの中で影響力がある女子がその担任に好意を持ったようです。
最初は上手くいっていたのですがその女子と担任の中で何かあったらしく
仲が上手くいかなくなり、その女子は担任に嫌がらせを始めました。
クラスのみんなはその女子に同調して、今で言うところの学級崩壊になり
しまいには父兄まで担任に口を出してくる事態になりました。
私の学校では通常2年間同じ担任なのですが1年で担任が変わることになり
次にやっていきた担任は他の学校で問題を起こした暴言を吐きまくる問題教師でした。
そして私のクラスはみなひどい目にあいました。因果応報ですね。めでたしめでたし。

そもそもの問題はその女子と担任との個人的な問題でした。
何があったかはよく知らないのですがその女子が担任に何かやりすぎて
それを注意した担任を逆恨みしたことが発端のようです。

2人の問題だったのがいつの間にかクラス全員の問題になっていました。
私もそれに巻き込まれてクラスのみんなと陰で担任の悪口を言っていました。
その担任は数年後、教師の道を諦めました。可哀想な事をしたと思っています。

他人の問題に同調してのっかり、いつの間にか他人の問題がそのまま自分の問題になる。
これが世の中から差別や争いが絶えない原因のひとつだと考えています。
今では他人の問題を押し付けてくる人は適当にあしらっています。

自分以外の問題にのっかる場合は
その結果がどうなってもいいと考えるか
それが自分の問題になることを覚悟するかどちらかです。
例えて言うならば
借金を頼まれたのなら縁が切れる覚悟でお金を貸す。またはお金をあげたつもりで貸す。
と言ったところですね。

勝ち組と負け組

勝ち組と負け組と言っても
アベノミクスで大儲けした人と底辺の話ではなく
1945年敗戦当時、地球の裏側のブラジルで日系移民が
敗戦を信じられずに戦争に勝利したと主張する「勝ち組」と
敗戦を受け入れた「負け組」で分断が起き
日系移民同士で詐欺やテロ行為が横行しました。
そして多くの被害者や死傷者を出し
日系移民社会に長い間しこりを残しました。
詳しくは下記のリンクやGoogleで検索してください。
https://www.ndl.go.jp/brasil/s6/s6_1.html
https://ja.wikipedia.org/wiki/臣道連盟

ブラジルは連合国のため日系移民は敵性視され
日本語が禁止され情報統制された中で
貧困の苦境を生きて行くために
敗戦を受け入れることができなかったのは
しかたがないのかもしれませんが
俯瞰してみればまったく意味のない争いでしょう。

こんな話をするのは
今回の新型コロナ騒動で多くの人が
政府、他国、感染者、政府の指示に従わない人などを
裁いて分断が起きています。
また今後起きる崩壊で同じことが繰り返されるでしょう。
これは勝ち組と負け組騒動と同じことです。
今起きていることの本質は「地球の決断」にあるわけで
これらの本質ではない問題に巻き込まれないように
私たち人間の愚かさに気をつけて残り十数年を
乗り越えていきましょう。

良心について

BBS左No.437に良心の大切さが書かれていました。
「自らの良心に従う」は宇宙全史の当初からのテーマの一つです。
言うのは易しいですが実際やってみると困難なのは皆さんも感じていることでしょう。
そもそも良心がなんなのか確信がないのが普通でしょう。
BBSから良心をピックアップしてみます。

BBS右No.3294の回答

そして②の中で出来る限り自分(エゴ)の目的にかなった生き方を探るのが「洗練されたエゴ」なのです。
しかしこのエゴの中には、「エゴ」と「自らの本心(良心)」が混じってあります。
そこでどこまで「本心」を出していけるかが本当の洗練された「エゴ」になります。

「良心に従う」ということ自体が「祈り言葉を忘れない」ということです。

BBS右No.3841の回答

良心は確かに思いや行動の基準になりますが、その良心も精査され鍛えられなければ都合のいい仮面をかぶったエゴに過ぎません。

BBS右No.3375の回答

それでも出来ましたら日々の生業の中で

「あれはまずかったかな?」

「あの時ああすれば良かったのでは?」

そういう思いが出た時に、振り返ってよくよく自らのその時の「思い」「考え」「行動」「発言」を見ることが大切です

しかしそれが出来れば大したもので、通常はそこまでもいかないで(何も気がつかないで)ずっとスルーしているのが普通の人たちです

つまり日常

「自分は何も間違ったことはしていない」

「何を反省することがあるのか」

そういうスタンスでいるのが当り前のようです

ですからまずは日常、常住坐臥、自らを振り返るという姿勢は大事なのです

その上で己の「本心(良心)」に照らし合わせ

一歩一歩進化できるように

お祈りと共に

歩んでいきましょう

明日に死んでも後悔することがない生き方ができれば問題ないのですが
そんな人はほとんどいないでしょう。
BBSの回答にある通り良心を出すには洗練された「エゴ」が必要です。
いきなり「良心に従って生きる」ことは無理です。
そこで日常のちょっとしたことから良心を出すことを意識してみましょう。
それは損得や道徳を超えた感謝から人に「ありがとう」と言うこと
ふとした思いを実際に行動してみること
何かのついでに心の中でお祈りをしてみること
感情的になったときに自分を一歩引いてみることなど、そんなものでいいです。
いつも言っている通りできることからコツコツやっていきましょう。